行き先 ⇒ トルコ ※今回はサイトの容量の都合で写真がちいさいです。 また観光客の顔がなるべく映らないように シャッターチャンスをねらって急いで撮影したため、 質がよろしくないです。 特定の場所はフラッシュも禁止されているため、 ピンボケしていたりします。 ご了承ください。 いよいよ、アジアとヨーロッパの玄関口である イスタンブールです。 ヨーロッパ大陸というのは初めてで、 たくさんの欧州人におどろきました。 かつては首都だった場所ですが、 アタチュルクによって、アンカラになりました。 経済的には、イスタンブールのほうが上です。 トルコは、6割はアジア、4割はヨーロッパだそうです。 2つの大陸が交差しており、 ヨーロッパからすれば、アジアの玄関口になります。 かつては122人もの皇帝が、 この都市を支配していたらしく、 うち82名がオスマン皇帝だといわれております。 くわしい歴史は各自でおしらべください。 イスタンブールとなったのは、 メフメト2世がコンスタンティノープルを 陥落させたあとです。 もとは、東ローマ帝国のビザンツ領でした。 しかし、十字軍には『異端』あつかいされ、 しかも略奪までされました。 現在のアヤソフィアを見れば、一目瞭然です。 反対側にはオスマン帝国が肉迫し、 しかもイタリアやヴェネツィアも足並みがそろわず ビザンティン帝国を助けられませんでした。 まさしく四面楚歌……おっと、これは中国だ、 孤立無援の状態でしたが、 しかし、ギリシア正教を救ったのは、 敵であるはずのムスリムでした。 かれらはキリスト教徒に寛容で、 しかもモザイク画にしっくいをぬって隠し、 『破壊』しようとはしなかったんですね。 これは、ガイドさんも誇らしげに語っていました。 自分も、聞いていてうれしくなってきました。 だって、日本もおなじ立場だとすれば、 きっと同様のことをしただろうから。 まあ、日本は他国の宗教までは あまり興味がないみたいだったのですが。 宗教にかんして、 興味ぶかいエピソードがあります。 乃木希典らが 日露戦争の勝者としてスルタンにまねかれたとき、 メフメト6世か、アブデュルハミトだったとおもうが、 日露戦争の勝者にすこし嫉妬して、 『日本もイスラーム信徒になればいいのに』 と、言ったことがあるそうです。 でも、日本はイスラム教にはあまり興味がないようで、 ムスリムにはなりませんでした。 まさか、ちっぽけな島国・日本が、 大国ロシア艦隊をやぶるとは思ってなかったようで、 当時のトルコの良い意味での衝撃は、 すさまじかったそうです。 そして、のちのアタチュルクも 少なからず影響を受けたのでした。 トルコの父が、明治天皇の写真を飾っていたんですよ? 尊敬してくれていたのですよ? わが国・日本は、 じつはとんでもない島国だったのですよ! 硬いお話になってしまいました(苦笑) ああ、そうそう。 イスタンブールの天気と女性は、変わりやすい ということばがあります。 天気はわかりますが、女性は…… では、まいりましょう! 筋肉痛でギシギシいたむ足を引きずりながら(苦笑)、 アヤソフィアの全体を撮影できる場所へ移動。 みんな、朝もはよから魚釣りしとる。 お店や個人に売ったりしているらしい。 でも、めっちゃ釣れます。 ここは、あとで訪れることになります。 まずは、イスタンブール名物、 グランドバザールに行きます。 あやしい人物を追いはらってくれたおっちゃん。 ありがとう。 だから写真を撮らせてもらった。 案外、みんな写真を嫌がらないね(笑) 方向オンチの自分は、しっかりと迷子になりました。 ずいぶんと店でゴネていたら、 方向がわからなくなってしまった。 ここでの値切りは、 冒頭(1〜2日目)に記載したので省略。 出口だけは、マジで気をつけや。 あと、困ったら警官に相談。 パスポートと財布を見せろって言われたら、 そいつは警官じゃない可能性がたかい。 警官の服装で、 旅行者をだます手口が横行しているらしいよ。 つぎに、地下宮殿にまいります。 地下宮殿というのは、まちがっていますね。 ここは、ただの貯水池なんですよ。 (8万立方メートル可能) まさか観光名所になるとは 当時の建築者たちも おもってなかったことでしょう。 しかし、とても美しいです。 これは、ぜひイスタンブールで見てほしい。 写真やガイドブックで見るより、 肉眼で確認してほしいんだ。 ここは、ほんとうにすばらしいよ。 幻想的で、ほんとうに感動した。 007の映画でも有名らしいです。 ここは、ぜひ死ぬまでにご覧いただきたい。 メディウサの頭がなぜ逆さまなのか、 今でもよくわかってないらしい。 イェレバタン・サライ。 コンスタンティノポリス(イスタンブール)には 川がありません。 海に突き出た台地であるためです。 ローマの水道橋で水を引くこともあるが、 敵包囲にそなえ、 市内にいくつか貯水槽をつくって水を貯めていました。 いまでも天井から水が垂れてくるので、 デジカメには気をつけましょう。 あと、下の魚はスタッフが入れたそうです。 水を綺麗にしてくれているそうな。 地下はやはり涼しく、 しかもこの幻想的な光景ですから、 ずっとここにいたかったです。 このあとも、アヤソフィアやブルーモスクで、 感嘆の声をあげねばなりませぬ。 イスタンブールは、神秘と歴史の街ですね。 すばらしいです。 にゃんこ。 どうせおまえもアヤソフィアに行くんだニャ。 さっきもロシア人たちがいっぱい通ってたニャ。 はやく行けだニャ。 撮影料にお魚よこせだニャ。 アヤソフィアは、ギリシア正教にとって あこがれの巡礼地でもあります。 だから、ロシア人やギリシア人が多いのです。 ものすごい人、人、人です。 前に言った、売り上げがともなわなかったのか ガイドさんも途中でスネてしまって(苦笑)、 しかたがないので 個人的にしらべた資料も 織り交ぜてご紹介します。 発音としては 『アヤ』というよりは『ハギア』のほうが良いです。 しかし、日本人に発音はむずかしいので、 従来どおり『アヤ』で通します。 アヤソフィアは、3度の焼失にあっています。 各アーチにはかならず模様がほどこされ、 モザイクもすばらしい状態で残っています。 ところどころ金箔がはがされているのは、 十字軍の略奪だとべつのガイドさんが言っていました。 十字軍はカトリックでしたから、 ギリシア正教は『異端』だったためです。 司教の妻帯(カトリックは駄目)だとか、 ある一文をめぐって議論(かなりの論争になった)をしたりとか、 詳細は割愛いたします。 まず、中に入ってはっとさせられるのが 天井のドームの高さ! そして広さ! 大ドームの中央は56メートル! と言っても、きっとピンとこないと思うのです。 TVや写真ではだめだ。 これは、あなたの目で見て、確認せねばならない。 死ぬ前に一度は見ておこう! 絶対に損はしない。 いつまでも天井を見上げていたくなる、 そんな神聖な場所です。 大聖堂自体は、ムハンマドが誕生するよりまえに 完成していました。 すなわち、正教の建物を参考にして、 モスクが建てられていったのです。 ヴァチカン法王も過去に来たようですが、 入ることは赦されましたが お祈りはできませんでした。 ここのモザイクは表情の細部まで表現し、 奇跡だとまで言われています。 それを、ムスリムたちは「しっくい」で隠しました。 偶像崇拝が禁じられているからです。 十字軍とちがい破壊しなかったのは、 かれらが寛大な証拠です。 現在は政教分離が確立し、 しかも『博物館』になったため、 漆喰がはがされて公開されております。 ちなみに、イスラームは偶像が駄目なので、 文字で『イエスは預言者である』と、 書かれてあるそうです。 有名ですが、念のために記載します。 こんにちのイスラームとキリスト論争の 根底にあるのは、 『イエスは神の子ではなく、ただの預言者』 であるとムスリム側が主張していることです。 ムハンマド自身も、 『私はただの人間にすぎない』と言っています。 神に子がいるわけがない。 神は唯一絶対の存在なのだから。 ギリシア正教とカトリックの最大のちがいは、 イコンの存在であります。 ざっくり言えば、 神を描き、それを崇拝するのは非常識である……そうだ。 これがずっと論争になっているわけであります。 日本人には、 やはり理解しがたいものがありますね。 はたから見てるとおもしろい論争におもえるが、 いつまでも平行線でお互いにゆずらないので、 ずっと見ていると疲れてくるのは否めませんね。 ああ、すこし長くなってしまいました。 ※フラッシュ禁止なので、 ピンボケしています。 ご了承ください。 斜め柱。 べつのガイドさんの話をこっそりきいてみると、 アヤソフィアはあちらこちらに不安定箇所がありますが、 それが逆にバランスをとっていて、 大地震がきても、壊れないと予想されているらしいです。 柱といえば、 奇跡のゆび入れというものがあります。 穴に指をいれて360度まわせば、 願いごとがかなうというものです。 地下水道(宮殿)にあるものは練習版。 アヤソフィア1階にあるものが本番になります。 練習しとくといいかも? このとびらは、 右が天国で左が地獄をあらわしているそうです。 余談ですが、ダンテの神曲では、 預言者ムハンマドは地獄でひどいめにあっています。 ダンテの作品は、 むろんイスラム圏にも翻訳されていますが、 この部分は削除されているそうです。 床のひびは、地震の影響です。 いたるところにあります。 かた苦しい話もつづいていましたし、 お腹がすいてきましたね。 お昼にしましょう! またお肉……(苦笑) いや、観光客むけの味つけでおいしいですよ。 スープがおいしかったな。 お店の外の花。 きれいに咲いています。 手入れしているのでしょう。 つぎは、ブルーモスクのちかくの公園です。 この日は金曜日でして、 すこしお祈りが長引いて なかなかブルーモスクに入れなかったんです。 お祈りのことばが、外まで響いていました。 このあたりは、 有名な競技場があった場所です。 現在は公園になっています。 正しくは、『競技』ではなく『競馬』でした。 (2頭、4頭立て馬車レースです。 もちろん、スポーツも開催されていました) これは、カッパドキアというタイトルの 資料文献(2冊)でも一致しております。 オベリスクは、 4世紀にエジプトから持ってきたもの。 ほんとうは、もっと大きかったようですが、 運搬時に小さくなってしまったそうです。 台座は、各王(トトメス3世、テオドス1世など)の生涯を ラテン語でえがかれているそうです。 読めませんよ、えっへん(自慢すな) 上から3番めのものは、 3姉妹の長女、ヘビの黄金の頭があったそうです。 が、ぬすまれて現在は行方不明。 これも、むかしはもっと長かったそうです。 さて、ブルーモスクのお祈りが終わりそうです。 ひとまず、向かってみましょう。 ブルーモスクにも犬。 犬好きにはたまりません。 お祈りは、まだ続いていました。 中庭のちかくで、並んで待ちます。 お祈りの声が、そとまで聞こえています。 写真撮影が駄目でもいいから、 (お祈りが無効になると信じられています。) お祈りを見てみたかったです。 イスラームは、 まだまだ日本にとってはとおい存在。 欧米思考にそめられた自分にとって、 まだまだ未知なる宗教であります。 ブルーモスクの正式名称は、 『スルタン・アフメト・ジャーミー』。 あのスレイマンの孫アフメト1世によって、 1616年に完成しました。 ブルーモスクということばは、 トルコ人には通じなかったそうです。 最近は観光客がふえ、英語ができるひとも増えてきたので、 ブルーモスク、と言っても通じることがありますが、 地方だと通じないです。 スーパーでも英語が通じなかったもんなぁ……(苦笑) 赤地に青い絵なので ヨーロッパがつけたそうです。 2万以上のタイルがあり、イズミルで作られていたそうです。 54種の花模様があります。 カァバの方向をしめす印のとなりに、 説教壇があります。 僧がそこに登り、 そこから祭日と金曜にコーランを詠みます。 コーランの内容は 旧約聖書から引っ張ってきているものもあるので、 旧約聖書の内容を詠むといっても良いでしょう。 男女べつべつに祈ります。 女性専用の場所がもうけてあります。 過去に、タイルをはがす阿呆がいたので、 現在はそこに登ることができません。 おなじく、むかしはトルコ製の伝統の絨毯でしたが、 絨毯もぬすむ阿呆がいたので、 現在は機械織りの安物絨毯です。 (ただし、伝統の絨毯は博物館にあります) 中央は43メートル……ああ、いや、 アヤソフィアより、ひとまわり小さいです。 最上にも場所があります。 しかし、そこは何人も入れません。 預言者ムハンマドの席であるからです。 そこからやや斜め下のほうに、 王のみが祈る場所がありました。 下にはつねに護衛がいました。 礼拝中に、 暗殺されることが多かったためです。 ブルーモスクに信者が入りきらなかった場合、 中庭で絨毯をしいて祈ります。 2万人ぐらい収容可能だそうです。 ミナレットの本数で位がきまるのですが、 サウジアラビアのカアバがいちばん多い8本です。 ブルーモスクは6本です。 2番めに位がたかいです。 このブルーモスク・アヤソフィアのちかくに、 トプカプ宮殿があります。 インペリアル・ゲート、 (トルコ語ではバーブ・イ・フユーマン) すなわち皇帝の門からなかに入れます。 トプカプ宮殿のまえは、 ポセイドンを祭る神殿があったと考えられています。 トプカプに関する文献は、 日本にもけっこうありますから、 各自でおしらべください。 ここでは記載しきれません。 代わりといってはなんですが、 武器庫など、撮影できない場所での撮影方法…… え? 死にたくなければ黙ってろって? だってさ、その辺の中国人は メモ帳カバーにiphoneしのばせて……モゴッ。 おや、これはハーレムでは……。 有料なので15トルコリラを支払い、 カメラも入ってみましょう。 このカガミ。なんだか怪しいですよね。 ピンとくるひとは来るかもしれません。 これが何かは、あとのお楽しみ。 このカガミは、『合わせ鏡』でした。 実際に、入ってみるとすぐにはわかりません。 しかし、進路順にすすみ、出口のちかくにくると、 わかります。 黄金の合わせ鏡。 贅沢ですね。 ハーレムというのは、 スルタン(王)の愛人だけがいたわけではありません。 姉妹がいて、スルタンの子どもがいて、 さらに征服した王女たちを収容し、 中には手をつけずに教育をしていたそうです。 ちなみに、大スレイマンの時代ぐらいまでは、 『兄弟殺し』が存在しました。 後継者あらそいを避けるための習慣で、 なかには18人(だったとおもう)もの男子がいた王がいて、 後継者以外が殺されたこともあります。 女子は、いうまでもなくイェニチェリ(親衛隊)、 貴族、他国にとつぎました。 なかには、未亡人となった女性が、 60代で70代(だったとおもう)の 宰相に嫁がされたひともいたのだとか。 しかし、ハレムも時代がながれるにつれ 従来の『機能』を果たすようになっていきました。 セリム1世ぐらいからですね。 もしかれがもっと政治に熱心で、 官僚政治による腐敗を排除していれば、 オスマン帝国は、 もうすこし長生きしていたかもしれません。 しかしそうなると、 アタチュルクが 誕生しなくなってしまうかもしれないわけで……。 入り口には、いちおう護衛兵がいます。 しかし、トプカプは事前に 空港のようなX線もあって、 チェックはかなりきびしいです。 テロはむりだと思うけど……。 ヒマではないが、 アタチュルク廟とちがって トルコ人に話しかけて笑ったりしてます。 現在のオスマン帝国皇帝の末裔は、 フランスに住んでいるそうです。 スズカケノキ(鈴掛の木)が、 オスマン帝国の長寿をねがって植えられています。 糸杉の木もありまして、 こちらは死をわすれぬように植えられております。 『幸せの門』が、宮殿の中心部。 ここで、スルタンはパレードを見ていたそうです。 謁見の間の玉座は、 ルビー、エメラルド、真珠でかざられ、 カーテンのなかにもルビーが入っています。 宝物庫には、 48キロの純金のロウソクがあります。 コーランにしたがい、 燭台には6666個のダイヤがあるのだとか。 あと、86カラットのダイヤ。 スプーンのダイヤもあります。 (ダイヤの価値がわからない男が、 スプーン3本と交換したことから) 有名なエメラルドの短剣、 そして、あの山田寅次郎氏がトルコに寄贈した 日本刀が飾られています。 写真撮影はできません。 青いタイルでかこまれた部屋は、 『聖なる部屋』 ムハンマドの衣装や、 ヨハネの腕の骨や頭蓋骨があります。 ここも写真撮影は禁止です。 オスマン帝国時代には、 宮殿は5つありました。 1つをのぞき、 現在はすべて博物館ですから、見学できます。 (1つは最高級ホテルになってる。 1泊200万円也。) 観光は、これで終わり。 翌日は、ゆったりクルーズと、モスク。 なので、今のうちにたのまれていた土産を 必死でさがす。 イスタンブールも、都会です。 信号がすくないだけ。 関西同様に(苦笑)、 みんな平気で信号無視をします。 スタバやマクドナルドもありますが、 自分は地域のお店でチョコを買ったり、 アイスを食べたり、 電気屋をちょっと覗いてみたりした。 へんな男に2人ほど声をかけられたが、無視。 ホモだったらおじさま困っちゃう〜〜〜♪ ……冗談はともかく(笑)、 好意的なヤツには気をつけろ。 変な場所に連れて行かれるか、 お金を取られるか、 とにかく良いことはない。 女性はとくに気をつけたまえ。 レイプ被害もあるようだからな。 『お前の言うとること意味不明』 と、英語と日本語で適当に言え。 困ったら大声をあげるか、 (イスタンブールは人が多いからね。 かならず誰かがたすけてくれる) オマワリが巡回しているから、 助けを呼べ。 日本のオマワリより巡回してるんとちゃう? でも、あまり英語は通じないぞ。 小耳にはさんだのだが、 トルコのオマワリも 発展途上らしく賄賂があるそうな……。 この日の晩飯は中華。 ブタ肉禁止やから、ヒツジの肉の中華。 臭いギョーザだった……。 ごめん、やっぱわしヒツジ肉は食えんわ。 この日は、これにて終了。 たのしいトルコ旅行も、 つぎの日でおしまいです。 あっという間でした。
もどってみるんですよ。 |